J 「合楽で説く御理解。神愛。安心。」
昭和五十七年三月八日 朝の御理解
 御理解というところが教典にありますね。御理解というところでですから、御理解について皆さんに聞いて頂こうと思います。
 時代社会がどのように移り変わっていっても、人間が幸福にならねばならない。又神様の願いである幸福になってくれよとい神願いというものは普遍のものである。
 金光大神の御教え、いわゆる御理解には普遍のもの、いつの時代であっても変わらないもの。「真に有り難しと思う心に真の霊驗の始めなり」というような御教えを、これはどんな時代、社会が進歩し変化していってもおかげを頂く根本は普遍のものであり、いわゆる今昔を問わない、今も昔もない。真に有り難い、その心を求めていくのがお道の信心だと思うんです。
 私、よくは聞こえませんでしたけれども、昨日は日曜日でしたから、佐田先生が正奉仕の、佐田秀紀先生が致しておりましたが、昨日特別ほう奉修員の御祈念のあとの御理解を、私、耳が遠いからよくは聞こえませんけども、最近、今度記念祭の、記念出版の為に塗板にかかれてありますね、毎日、その日の御理解を研修、そしてまとめてあるそれを、まあ、全部というわけにはまいりませんから、それをもう一辺検討して御本にしょうという計画があっておりますので、その、ま、検討を日々やっておるそうです。まあ、そう聞こえなかったけど研修員の方達は皆聞かれたわけでしょうけれども、日々その事をあたらせて頂いて思う事は、ね、も、とにかくも、日々が新というかもうこれだけの大体御理解百節なら御理解百節なんだけれども、合楽の御理解はもうそれが一日だって同じ御理解がないのに、ま、驚き恐れ入るという意味の話をしているようでした。皆さんもそう感じられると思うですよね。
 御教えそのものは、その根本になるものは変わりません。けれどもその時代時代、社会がこう変わっていく、その、いうならば、生活の中から生まれてくる話は違うのです、ね。どこまでも教粗の御教えが根本ではあります。そこにね、私はあの合楽の信心の一つの、ま、値打ちというか合楽が生まれて又,合楽理念が発表されるような働きになってこねばならなかったわけがあると思うんです、ね。
 私は、今朝方からお夢を頂いた。z『場所は椛目の元の家のようです、前を沢山な人、まあ、百名位の団体だと思うですけども、歩いて通っております。見ると、見たような顔がいくらもあるあ、これはテレビに出る人たい、これは昔、何々という役者さんじゃったというような人達ばっかりなんです。いわゆる俳優の一団であった。歩いて通っておる、それをまあ、団長さん格のが昔新派に井上正夫という俳優がおりましたが、その方が団長のようです。丁度椛目の、私の家の真正面の所で一人の俳優が倒れて大変苦しみ出したもう、しかも私のまん前である。も、こんなにも間違いのない真ン中、それが特に印象的でした。
 ところが、他の団員達はその苦しんでおりますけれども、それをかまっておれないというふうにして皆が通り過ぎてしまいました。それで私は、表に出てその人の介抱してあげてすぐ御神米を頂かせました。そして、まあ、介抱しておる時間がちょっとかかりましたから、幹三郎にあの団体に自動車で行けば、ま、どこ辺では追いつくだろうから送ってあげなさいと言うておるところでした。もう、本人は大変に喜んでその御神米をおし頂いて、この御神米を持っておる人間が私共の団体の中に十三人おりますという事をいうのです』いわゆる金光様の御信者が十三人居るという意味でしょう。この御神米をはじめて頂いて、こんなにあらたかなおかげの頂けたという事を大変感謝して、そして幹三郎に自動車で送れと言うておるところでありました。
 真に有り難しと思う心直ぐに霊験のはじめと、ね。真に有り難いという心、それはね、時代が変わったからその有り難さが変わってくるという事ではけっしてありません。これはいつの時代であっても真に有り難しという、いうなら、真に霊験のはじめと言われる真に有り難しというものは、普遍のものです、ね。
 まあ、いうなら、旅の空で病気をしてそこに、ま、親切な方があって、御神米を頂かして下さったり、又、しかもその一団に遅れたからというて又、送ってまでもらうその親切に触れた時に有り難いと思わない者はなかろうと思います。
 どうですか皆さん、真に有り難いとはどういう事だと思いますか。そういう時に受けたおかげの有り難さが真に有り難しのようですけれども、これは真に有り難しではないです。それを奉仕したそこに親切な心を起こした、可愛いと思う心が神心と仰せられる神心を起こした人が頂く心が真に有り難し、ね。親切を受けた、親切一つで人が助かると三代金光様は仰せられよったそうですが、ね。その親切が、いうならば、神心に通ずるそういう心が使えるという事が真に有り難いのです、ね。
 これはもう、それこそどんなに社会時代が移り変わっていっても、ね、この真に有り難いという心は普遍のものである。おかげを頂いて本当に勿体ないおかげを頂いて有り難い、それもやっぱり真に有り難いに通じないわけではないでしょう。けれどもなら、それとは反対の時にも有り難いと感じれる事の為に、合楽理念は神愛と説くのです。一切神愛と説くのです。その一切神愛を本当に実感としてわからせて頂く事の為に天地日月の心というような心が、あらゆる角度から、生活の上にどう現していったらよいかという事を説くのですね。そこにです、私は、御理解の真価というものを感じます。御理解というのは、理を解くのです。教祖の御教えは、ね、只、まあ、単純というか素朴というか、ふうに聞こえるのでございますけれども、その御教えの芯が私共の生活の上に現れてくる時に合楽で説かれるような、一日だって同じ事、これは普遍のもの、私がおる限り限りなく、ね。いうならば、今の方達の、まあ、感覚というか、考え方の上にもです、ね。なるほどと合点のいく解き方、それが理を解くのです。理解なんです、ね。今も昔も、ね。百年前の教祖金光大神の真に有り難いと言われた有り難いも、百年後の今日の合楽で言うておる真に有り難いも同じ、同一のものでなからなきゃならん。それは私が、昨日今朝からお夢頂いた、ね。
 この、ま、百名余りの団体の、この、俳優さん達の中に井上正夫という人が団長であるという事やら十三人信者がおりますというような中に、これは、又理解づけるといよいよ理解・・・・。
 井上正夫という事は、ま、天地の親神様といったがいいでしょうかね。いうならば御演出して下さる様々な事柄、いうなら私共の上に問題が起きてくる様々な複雑な問題、まあ、難儀な問題ありますけども、それ一切が神様の御演出と見るべきだとその演出をです、本当に神様の御演出として頂き表現出来る、それがいうなら、役者の使命ですよね。使命というか演技力という事になりましょうか。それ、百人の者がおります沢山の者がおります中に十三人はお道の、いうなら信心によってそういう事がわかっていきよるという、いうならば、事でしょうし勿論そこに十三,という事は神願です。神様の願いというものは神が演出する。
 神様のいうならば、書き下ろされたその演出に私共がいかにそこに演技をです、ね 下手な演技をするか、名演技を現していくかという事になる。そのお芝居の中で有り難いはずの事が不平であったりするような事では、ね、いけません。それが本当に神愛とわかる時に、ね、難あって喜べ、難は霊験といったふうな頂き方が出来る演技力というものをです、身につけていく、そういう意味がその事にはあるように思います。お互いがどう演技しておるかと、ね。
 自分はどうしてこんなに、ふ、が悪いであろうかと、自分はどうしてこんな難儀をいつまでも続けねばならんだろうかといっておる間は、もう、本当に下手な下手な演技しか出来ていない証拠なんです、ね。昨日の研修で、憎い可愛い、惜しい欲しいを取れば楽といったような、四神様の御教えを引用しての御理解でしたが、そういう心が取れるというね、それにはやはり、御理解を頂いて心が開けるという事ね。
 開けるという事がそのまま。私は昨日は皆さんに申しませんでしたけども、あの、御理解を頂いたあの、根本のお知らせはね、zあの、傘、一本の傘、あま傘に汚なぁいタオルが一本こうやって結びつけてあるんですよね。こう、あの、から結びじゃなく只,こう結んである、汚なぁいタオル。ところが『その傘をね、こうやって開いたらすう-っとその、汚いタオルが下へ落ちる所を頂いた』ね。だから、傘は安心と言われるから心に安心の心を開いたら汚いものは自ずと取れるんだという所から、あの、昨日の御理解ね。
 心を開くという事は、いつの間にか人間がね、憎い可愛い、惜しい欲しいといったような心が、ね。心を開く事によって、いつの間にか取れていくのにこれはもう驚くばかりである。これは内面的、いうならば、心が開けるという事ね、外面的に心が開けるというのは、いつも私が聞いて頂く、私のいうならば、商売のもう、出来なくなった頃、借金の断りに福岡に行かねばならない、もう、たびたびに嘘になるから、もうそりゃも、本当に大変な事であったけれども、ある時、大城の電車でね、相撲取りの話を聞いて、私の心の中にもうそれこそ、本然としての開けたもの、ね。
 教えを頂いて心が開けると同時に形の上で様々な難儀苦労をしておるけども、それがはっ!と気づかせて頂いた時にです、これは神愛の現れだ、神様が末は横綱か大関にでも取り立ててやろうという願いがあるからこそ、このいうならば、修行をさせておって下さるんだなとわかった時にもう、勇気百倍。
 それこそ、重い足をひきづって借金の断りに行っておったのが、むしろ反対に金でも預けげ行くような、それこそ意気揚々とした喜びいっぱいで借金の断りに行った事をいつも聞いて頂くでしょう。もう、それっきりでした。
 もう、大坪さんこれっきりで来て頂かんでいいですよと、もう、本当あんたが出来た時払うてくれといったような、勿論おかげにもつながったが、そういう心の開けるという事は、これは形の上から開けたわけです。
 昨日の御理解は、ね、内面的にお話を頂いて心の中に、本然として悟りが開ける。 それには、本気で求めて求めて求め抜いとかなければ、開けないという事です、ね 笹葉の動きを見てでも悟りが開ける。蓮の花が開ける音と同時に、いうならば悟りが開けるというふうに、仏教では説くそうですが、ね、それがもう、只、只、偶然に開けるのじゃない。もう、本当に求めに求め、求め続けておる時に、ふっ,と本然としたものが生まれてくるんです。難儀の中に、又は御教えを頂きながら、心があぁ、そうだったとこう開けてくるんです、ね。その心が開けたら、もう、そこにあるのは喜びである、安心である。
 そして、今迄取れそうにもなかった憎い可愛い、惜しい欲しいまでが取れていっておる事に気がつくのであります、ね。例えば、なら、教祖の御教えには、そういうふうに、まあ、合楽で頂くようなふうに、ね。現代の難儀、今、私が感じておる考え方というものの中に、教祖の御教えそのものは、まあ、素朴であり単純平凡のように見えますけれども、ねえ。
 佐田先生が昨日申しておりますように、改めて、ね、何年分の研修のまとめを改めて、又、読み下さしてもろうて、只、驚きだ、と。
 これだけ、いうならば、沢山な御教えがあるけども同じであるという御教えは、一日だってないという事、ね。そこに私共が本気で、いうならば、御理解に取り組む意欲というものを正さなけれはならない。本気で構えをつくらなけれればならないという事になります。
 教祖金光大神の御理解というものは、そういう時代社会がどのように変わるにいたしましても、普遍のものである。その中から真に有り難しという事を今日の私のお夢の中から、聞いて頂いたんですけども、その真に有り難しこそね、真のおかげのはじめという本当の意味において御利益というのじゃないですよ、ね。
 昨日の御理解からいうと、心が開けるおかげが受けられるという事であります。
                                 どうぞ。